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2018年08月17日 [色々なこと]

To become(なるようになる)

お疲れ様です。院長です。

8月17日の金曜日でございます。

まだまだ休みボケ中の院長ですが、世間じゃまだお盆休みを楽しんでやがる人達も多いみたいですよね。

昨日まで、お盆ってことで、今日も休んじゃえば明日明後日とまた休みですから、今日休んで9連休とかふざけた人達も結構いるようです。

ええなぁ…(笑)

次は年末やなぁ…

毎年、30日から休んでるんで、後4ヶ月半ほどですな。

今はただ、それだけを楽しみに頑張ります(笑)

ってことで、年末どころか、まだまだ暑い日々ですが、今日もネタに突入しましょう。

今日は、人々の悩みについて少し考えていきたいと思います。

どんな前向きな人にも、多少なりとも悩みはあるでしょう。

そして、その悩みを解決すべくあれこれ考え、じっくり問題と向き合った後は、それを解決するためにがんばろうってなりますわな。

ですが、そう割り切っているつもりでも、しつこくその悩みが付きまといます。

振り払っても振り払っても心配事が消えない…。

こんな経験ないでしょうか?

しかも、今心配しても仕方ない事であっても、心配心に火が付いてしまうと、気になってしかたない…

どうやらそれは、悩み事を普段以上に目につくように情報を処理してしまう脳の働きにあるそうなんですね。

悩み事を、普段以上に目につくように情報処理とな…

例えば、みなさんの住んでる地域に、最近不審者が現れるという噂があるとしましょう。

中には、女性の一人暮らしの方もいらっしゃいますし、もちろん小さな子供も住んでいます。

特に、こういった弱者やその家族は、気が気でなりません。

そして、住民が自主的に近所を周り、怪しいことがあれば警察に通報するような、自警の見回りをしたとしましょう。

彼らは不審者がいないか、管轄の警察とも連携しながら、目を光らせ見回りを行います。

その甲斐あってか、やがて不審者が出るという話は聞かなくなりました。すると住民はどうするでしょうか?

可能性の一つとしては、治安に安心するようになり、警察への通報を止めるかもしれません。犯罪の不安は過去のものになったわけです。

ですが、安心するどころか、信号無視をする人や、コンビニ前で立ち話をする人など、これまで犯罪とみなされなかった行為まで通報するようになる可能性もあるそうなんです。

つまり、問題を解決するたびにその定義を変更してしまったら、状況が改善しているのかどうか分からなくなってしまいます。

ある概念が一般的でなくなったとき、それがどのように変化するのかを調べるために、ハーバード大学の研究者は、ボランティアを募り、画面にたくさん表示される顔を見て、それが「脅威的」かどうか判断してもらうという簡単な実験をおこないました。

その顔は、非常に脅威的に見えるものから、まったく無害に見えるものまで注意深くデザインされたものでした。

すると画面に映し出される脅威的な顔が減るほどに、参加者の「脅威的」の定義が拡大されていることが判明したそうです。

つまり脅威的な顔が見つからなくなると、それまで無害とされていた顔まで脅威的とみなすようになったってことなんです。

参加者が脅威と考えたものは、それがいくつ見えたかによって変化したということなんです。

こうした非一貫性は、脅威の判断に限りません。

別の実験では、画面上に表示されるたくさんの点が青か紫か判断してもらいました。

すると青い点が減るにつれて、それまで紫とされていた点が青と判断されるようになったそうなんです。

これは事前に青が少なくなると教えたり、一貫した判断ができたら金一封を与えると告げたりしていても同じだったそうなんです。

色まで変えてしまうんかぁ…。

まぁ、青と紫だと、どっちともとれる色はありますけどねぇ。

はたして人の顔の見え方や色の判断は、人の視覚の性質によるものなんでしょうか?

それとも視覚とは関係ないことでも、こうした概念の変化が起こるのでしょうか?

これを確かめるために、参加者にさまざまな科学雑誌を読んでもらい、それが倫理的な内容か、あるいは非倫理的な内容か判断してもらう実験を行ないました。

実験前、顔や色の判断とは違い、内容の判断はもっと一貫しているだろうと予測されました。

なぜなら倫理的な判断は時間が経過してもそうは変化しないでしょうから、そう考えるのも当然だと思われます。

もしあなたが今、暴力は間違ったことだと考える人なら、明日も同じ事を考えるはずでしょう。
 
ですが、驚いたことに、この実験でも同じパターンが繰り返されました。

非倫理的な内容が減るほどに、それまで倫理的とみなされた研究まで非倫理的と判断されるようになったってことなんですね。

つまり非倫理的な研究が目につかなくなると、ボランティアはよりいっそう厳しい判断をするようになったってことなんです。

では、なぜこのようなことが起こるのでしょう?

認知心理学や神経科学の研究は、これは脳が情報を処理する基本的な方法の結果であることを示唆しています。

私たちは目の前の物事を、最近の文脈と常に比較しているんですね。

その脅威を注意深く判断するかわりに、顔の脅威を最近見たほかの顔と比較して測定するわけです。

すると脅威的な顔が少なくなると、ほぼ無害な顔との比較で脅威の認定がされるために、すぐさま実験で観察されたような結果につながることになると…。

柔和な顔だらけの中では、ほんの少しいかついだけの顔ですら恐ろしげに見えてくるってことなんですね。

脳にとって、相対的な比較(他との比較の上に成り立つ)は絶対的(何物にも制限されない)な測定よりもエネルギーの消費が少なくて済むことが明らかとなっています。

人間の脳はいろいろな状況の中で相対的比較を行うよう進化してきたようで、環境の中で安全に暮らし、判断するにはそれで十分な情報が手に入る場合が多いからだと考えられます。

確かに比較物があるほうが、考える場合でも楽ですよね。

基準のようなものがあれば、それより上か下か、良いか悪いか、判断はしやすいですし、比較しだすとキリがないもんね。

では話を戻して、相対的な判断(不審者かそうでないか)を行う自警団は深刻な犯罪が少なくなると、ちょっとした逸脱ですら「犯罪」の概念に含めるようになりました。

その結果、懸念された問題を減少させることに成功したという満足は絶対に得られないわけですよ。

ですから、この場合も含め思いだすたび、心配になり決して安心できないということになっちゃうわけなんですね。

こう考えると、人間は常におびえて暮らさなきゃならなくなるわけですが、まぁ、人により程度の差はあれそういう考え方の生き物ってことなんでしょう。

でも、この事実を知っていれば、少し気が楽になりますよね。

ですから、心配事がある時はまず、「それ」が何であるかを明確にしておく必要があるわけですね。

ここが「曖昧」だと、相対比較によりドンドン深みにハマるわけです。

ですから、まず一番大事なのは心配のタネを明確にすることからスタートです。

この作業をキッチリ自分に向き合いやってみると、意外と「心配事」そのものがどうでもいいことだったり、そこまでの問題じゃなかったことに気付きます。

これに気付ければこっちのもの。

心配すること自体がバカらしくなるかもしれませんよ(笑)

前向きに考えるとプラスに転じる確率も上がる気がします。

何事も楽観視は、いけないかもしれませんが、少しは楽な気分で生きてきましょう。

ま、どうにかなるもんね(笑)

ではまた〜



tobecome



京都 中京区 円町 弘泉堂鍼灸接骨院


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